2016年7月22日金曜日

ラーマーヤナに見るヒンドゥー教の精神性

せっかくにインドに来たので少しインドの歴史や文化に浸ろうということで、先日ルームメイトとインド古代の2大叙事詩の一つ「ラーマーヤナ」をアニメで見ました。紀元3世紀頃にヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂されたとされています。ただ本編の大部分の成立は紀元前4ー5世紀頃だとされているそうです。(Wikipediaより)

驚くことに、アニメを見た後に寺院にいくとラーマーヤナに出てきていたキャラクターが神様として祀られていたり、地元の人の話で今までだったら聞き取れなかっただろう神様の名前が聞き取れたりして
インドの文化を少しわかったような気になります。

今回見たのはYou Tubeにもアップロードされている1986年に制作されたインドと日本の合作アニメです。絵が少し古く言語が英語になってしまいますが、それに抵抗なければ十分楽しめると思います。

基本的なストーリーは是非アニメを見て欲しいのでここには書きません。

アニメの途中で登場人物の発する言葉が、とても深くてヒンドゥー教の精神性を表している気がして興味深かったので、私に頭の何か数週間後も残っている言葉やシーンを少しシェアします。(細部やニュアンスに少し脚色あるかもしれませんが)

○ 戦は憎しみを動機としてはいけない。

メインのストーリーはさらわれた妻シータをラーマが助けにいく物語なのですが、妻シータが卑怯な手によってさらわれたとしったラーマは怒りに燃え、ランカの王ラーヴァナに戦を挑もうとします。

その際にラーマの弟ラクシュマナが言った言葉。

その言葉を聞き入れたラーマは冷静になり、シータの救出とそこで働かされている奴隷の解放を掲げて戦いに挑みます。しかし開戦真近の局面でもラーマは無血で目的達成を望み条件交渉に挑むのですが、ラーヴァナが聞き入れず止むを得ず開戦。

今の時代でさえ復讐を名目に戦争に突入する実例はたくさんあるし、映画を見ていてもそういうストーリーラインは普通にあるけれど、紀元前の人が憎しみが憎しみを生むことを承知した上で、それを戦いの名目にしないことに精神性の高さが垣間見えました。

○ 私だけ助けられる訳にはいかない、だって私の様に他にも苦しんでいる人がいるのだもの。

敵地に乗り込み助けに来たラーマの仲間であるハヌマーンに対し、シータが言った言葉。これをきいたハヌマーンは「かしこまりました、後日あなたと他の奴隷を解放しにラーマが助けに来るでしょう」と言い残してシータの前を去ります。

何気なく見ていたけど、この言葉に感動。

現代の映画は大体ヒーローがヒロインを助けにきて一緒に脱出するか、敵地での戦いに巻き込まれ敵地を破壊して脱出する(その結果の奴隷解放)というストーリーが一般的。

でもシーターの言葉は利己的な精神を否定し、社会全体の幸せや協調を表している様に聞こえます。紀元前の人はこういう価値観で生きていたのかなぁと思いを馳せてしまいました。

○ ハヌマーンが拝借した山を律儀に元の場所に戻しに行くシーン

戦いによる負傷者とラーマ王の傷を癒すための薬草が足りなくなったハヌマーンはアルプスの麓まで空を飛んでいき、薬草が沢山はえている山を丸ごと陣地へ持ってくるのです。(ハヌマーンは風神ヴァーユの子であり神話の世界なので何でもありです笑)この試みは成功し一命をとりとめたラーマ王は戦いに出向いて勝ちます。バンザーイで終わりかと思いきや、ハヌマーンが持ってきた一山を(住んでいた動物含め)律儀にアルプスの麓に返しに行くシーンが描かれていました。

これも私には斬新に映りました。戦いで消耗した資源を再生させるという現代風の「Sustainability」的な考えが当時から当たり前にあったのだなと。あとはシンプルに「他から借りてきたものは返す、略奪はしない」という精神。おそらく現代の戦争映画やアクション映画等ではなかなか描かれない場面。

総じてマニアックになりましたが、紀元前に作られたお話に現代の最先端の考え方が入っているところに感動を覚えました。そして、これを機にインドにいる間にヒンドゥー教を少し学ぼうという意欲が生まれました。 

0 件のコメント:

コメントを投稿